02、30代女性の腹痛
考えられるあらゆる病気を想定して診察が進むうち、いまだかつてないような大変な事態が持ち上がった。ER(救急外来)に緊張が走る。
深夜に腹痛を訴え、運び込まれた30代の女性
準夜帯から深夜帯に変わる午前1時ごろ、30代の女性が腹痛を訴え、救急車で搬入された。付き添ってきた夫が心配そうに救急車から降りて来た。夫はERナース(ER看護師)によって家族待機場所に案内された。ERのストレッチャーに移されたその若い女性は、顔をしかめながらお腹の痛みを訴えている。バイタルサインが取られた後、ERドクター(ER医師)が病歴をとり始めた。
「いつから、お腹が痛いですか?」
「1時間ぐらい前からです。」その若い女性はしゃべるのも辛そうである。
「痛くなったり、痛くなくなったりしますか?痛みに波がありますか?」
「痛みに波があります。今は少し良くなったような気がします。」
「吐き気はありますか?」
「あるような、無いような、よくわかりませんが、気分が悪いです。」
「下痢はありますか?」
「下痢はありませんが、性器出血があります。」
性器出血? この腹痛は産婦人科疾患が原因なのか?
この若い女性は、もう質問はいいからお腹の痛みをどうにかしてほしいと言わんばかりの表情である。腹痛があり、性器出血があれば産婦人科的疾患を考えるのが当然である。まず子宮外妊娠、不全流産、それから、卵巣出血、卵巣腫瘍による捻転など・・・、ERドクターの頭の中をさまざまな病名が駆け巡る。そして、ERドクターの質問はまだまだ続く。
「妊娠はありませんか?」
「ありません。ずっと不妊治療を続けていますが、もうあきらめています。」
その女性は痛そうな表情をしながらもはっきりと言い切った。
「つかぬことをお聞きしますが、最終生理はいつですか?」
「はっきり覚えていませんが、もう半年くらいは無いと思います。こんなことはよくあることです。」
そんなことはどうでもいいから早くどうにかしてほしい、といわんばかりにその女性は早口で答えた。
「そうですか・・・。」
ERドクターは少し困った表情でつぶやいた。この話だけでは妊娠の有無がはっきりわからないからである。
若い女性の腹痛の原因疾患を鑑別する場合、まず、妊娠に関与する疾患かそうでないかを考えることが重要である。ところが妊娠の有無を病歴から聴取することはなかなか難しい。なぜなら、患者が故意に本当のことを言わなかったり、言うに言えなかったり、月経(生理)に関心が低く本人でさえよくわかっていなかったり、といろいろな理由があるからだ。
えぇ、腹部正中に腫瘤(しこり)?
「それではお腹を診せてもらいます。」
腹部の所見をとろうとしたERドクターは患者の腹部を見てびっくりした。腹部正中に腫瘤(しこり)があるではないか。
「このしこり(腫瘤)はいつからあるのですか?」
「数ヶ月前からです。だんだん大きくなってきました。」
「どこか病院へ行きましたか?」
「どこへも行っていません。」
「それでは、お腹のエコーをさせてもらいます。痛くも痒くもありませんから。」
そのエコー画面を見ながらERドクターは小声でつぶやいた。
「腹腔内に小児頭大の腫瘤があるけど・・・。」
若い女性の腹腔内の腫瘤といえば・・・、卵巣腫瘍?子宮筋腫?子宮癌?それとも婦人科以外の悪性腫瘍(癌)? ERドクターの頭の中にはいろいろ病名が浮かんできた。
彼の頭の中は少し困惑してきた。その困惑をとろうとするかのごとく「若い女性の腹痛」の診断の基本に戻り、妊娠反応検査(尿検査)の話を患者に始めた。
「念のため、妊娠反応を診てみます。尿を調べさせてもらいますが、いいですか?」
「しても同じと思いますが、いいですよ。」
その女性は少し投げやりな感じで答えた。質問に答える元気がないと言ったほうが正しいかもしれない。その後、ERドクターはとられた尿を持って検査室へと走った。
事態の急変を知らせるERナースの叫び声
しばらくして、再びその女性が急激な腹痛を訴えだした。その時である。その女性が乗せられているストレッチャーの横についていたERナースが急に大きな声をあげた。
「だれか先生、来てください・・・、子宮脱です!」
ERナースの悲鳴にも似た叫び声がERに響き渡った。
子宮脱とは、子宮が膣口より外に下降する状態をいい、多産婦や老人などに起こるもので、若い女性ではまずありえない。そのありえないことが起こったのか、それとも別の何かが起こったのか。ERナースの叫び声と「子宮脱」という30代女性には無縁の医学用語にERは騒然となった。
リーダー医師をはじめ5~6人のERドクター、準夜勤務を終了して申し送りを終えたばかりのERナース、深夜勤務のERナース、たくさんの医師と看護師が一挙に駆けつけた。そこには想像を絶する光景が繰り広げられていた。ストレッチャーの回りに駆けつけたERドクターとナースは、最初この光景を理解できなかった。しかし、リーダー医師の一声ですぐに何が起こったかを理解した。
腹部正中の腫瘤(お腹のしこり)は赤ちゃんだった!
「子供のお尻だ!」リーダー医師が叫んだ。
そう、ERナースが言った子宮脱とは子供(新生児)の臀部(お尻)だったのである。つまり目の前で出産が起こっているのだ。それも骨盤位(逆子)である。リーダー医師はすぐに当直の産婦人科医と小児科医を呼ぶようにERナースに指示し目の前で起こっている出産に対応した。
そこへ担当のERドクターが検査室から帰ってきた。
「妊娠反応、プラスです!」
何も知らない彼の顔を見たERナースが
「先生、これを見てください。お産ですよ!」と出産現場を指差した。
「エー・・・」、ERドクターは絶句した。
その後、当直の産婦人科医がERに降りてきて、ERで出産が無事完了した。新生児は女の子、1800gの未熟児であった。当直の小児科医が新生児を未熟児センター(NICU)へ入院させた。出産を終えた母親は何が起こったのか全く理解ができていないようである。わかることは痛みからやっと解放されたということ、それ以上のことは何も考えられないようである。
出産を初めて知らされ、ただただ呆然とする夫
あっという間の出来事であった。思い直してみると、腹痛は陣痛であり、性器出血は破水であり、徐々に大きくなってきた腹部正中の腫瘤(しこり)は胎児であった。ERドクターがエコー下に見た腫瘤は子宮内に残された胎児の頭部であり、彼が言った小児頭大の腫瘤とはそのものずばりの答えであった。頭部以外はもう子宮から降りていたため胎児の全景をみることができなかったのである。そしてERナースが叫んだ子宮脱とは新生児の臀部(お尻)だったのである。
すべてが終わった後、ERドクターが「患者?」の夫に説明をするためERを出た。ERドクターを見た夫は「どうですか?」と心配そうに駆け寄ってきた。かなり待たされて苛立ちの表情さえうかがわれる。
「旦那さん、落ち着いて聞いてください。いいですか。」
ERドクターは夫に心の準備をしてほしいという気持ちからゆっくり話そうとしたが、夫にはその意図が全くわからず、逆にもったいぶった言い方にみえるERドクターの態度に、夫の顔色は心配の表情に変わっていった。
「あのぅ、奥さんはお腹が痛いということで、救急車で運ばれましたよねぇ。」
「はい。」
「実は、奥さんは、妊娠していまして、奥さんの腹痛は陣痛だったのです。」
「ハー?・・・」
「それで、さきほど、女の子が無事生まれました。未熟児ですが、元気です。」
「誰の子供が生まれたのですか?」
「おそらく、あなたの子供だと思います。」
「先生、私は○○××の家族ですけど?」
「はい、わかっています。ですから、奥さんには子供が生まれたのです。」
「ハー?・・・」
夫の頭の中は完全にパニックになっていることが手に取るようにわかる。それがわかっていながら、ERドクターには夫を理解させる言葉が見つからない。
「奥さんは妊娠していまして、腹痛は陣痛でした。出産は無事終わりました。生まれた女の子は元気です。」
この事実を何度も何度も、手を変え、品を変え、ERドクターはいろいろなことばを使って説明した。そのうち夫はその事実を理屈では許容したらしく、質問はなくなり、呆然とした表情になった。妊娠、出産という事実と意味を人は1年足らずをかけてゆっくり納得していくものである。それを何分かで納得しろというのは所詮無理なことである。ERドクターは呆然としている夫を残しERに戻っていった。
医師と患者の共通認識がない現場
母親は産婦人科へ、新生児は小児科へ入院したが母子ともに経過は順調であった。新生児の胎児週数は不明であるが新生児の成熟度より37週と判断された。妊娠、陣痛、出産というものは、まず医師と妊婦の間に前もって共通認識があるのが普通である。一般の人には、そうでないことが存在する、ということが信じられないであろう。
ところが我々が働く、すべての救急患者を引き受けるERでは、今回のように全く本人自身が出産時まで妊娠を知らないような症例に年に何回か遭遇する。本人が、自分自身の妊娠を知らない理由はさまざまであるが、「不妊治療中」というのははじめての経験であった。
お母さん、お父さん、おめでとうございます!
後で振り返ってみるとすべては理屈どおりであり、コロンブスの卵である。しかし、妊娠、陣痛、出産という共通認識が医師と妊婦の間になければこうも大変なやり取りになってしまうのである。幸い「天からの授かりもの」は無事であった。お母さん、お父さん、本当におめでとうございます!